「通貨は、中央銀行が担う役割の核心にある」
欧州中央銀行(ECB)専務理事会メンバーのPiero Cipollone(ピエロ・チポローネ)氏は、ローマで開かれたAspen Institute(アスペン・インスティチュート)イタリア支部の円卓会議でのスピーチで、こう切り出した。
中央銀行の使命は、通貨を発行し、その価値を守ることだ。この使命自体は変わらない。しかし、チポローネ氏は強調する。
「私たちがその使命を果たす技術的環境は、いま根本的に変わりつつある」
現金からデジタル決済へ、銀行からテック企業へ。金融はすでに、デジタル化の波に飲み込まれている。中央銀行も例外ではない。もし中央銀行が変化に対応できなければ、「金融システムに安定の錨を提供できなくなるリスクがある」という。
欧州が直面する「3つの問題」
デジタル中央銀行マネーは「解決策が先にあるだけで、問題がない」と語られることもある。しかしチポローネ氏は、欧州には明確な課題が存在すると指摘する。チポローネ氏が挙げたのは、「解決策を探す3つの問題」だ。
第1に、小売決済の分断。
SEPA(単一ユーロ決済圏)によって送金や口座振替は統合されたが、日常の店舗決済やECで使える「真の欧州共通手段」は存在しない。その結果、欧州は「少数の非欧州系カード・ウォレット事業者に大きく依存している」。これは戦略的自律性の問題だ。
第2に、通貨の形そのものの変化。
トークン化や分散型台帳(DLT)は資本市場を効率化する可能性を持つ。しかし、「中央銀行マネーが中核に存在しなければ、決済は民間の私的資産に分断され、信用リスクが再び持ち込まれる」。さらに、外貨建てや国外発行の決済資産が広がれば、通貨主権が揺らぐ。
第3に、国境を越える決済の非効率性だ。
送金は依然として遅く、高コストで不透明だ。ステーブルコインは代替案を提示しているが、「自国通貨や金融システムに対するリスクを伴う」。特にドル建てステーブルコインが支配的になれば、「ユーロの国際的役割が損なわれかねない」。
この状況で「何もしない」ことは選択肢ではない。
中央銀行マネーと民間マネーは対立しない
ECBの立場は明確だ。「中央銀行マネーと民間マネーは競合関係ではなく、補完関係にある」。
中央銀行マネーは信用・流動性リスクのない最終決済資産であり、「1ユーロは常に1ユーロであることを保証する基準点」だ。民間マネーが中央銀行マネーにいつでも交換できることが、人々の信頼を支えている。
この基盤があるからこそ、民間企業は革新的なサービスを安心して提供できる。ECBの役割は「民間のイノベーションを排除することではなく、安全にスケールできる公共基盤を提供すること」だという。
デジタルユーロという「デジタル現金」
リテール決済における中核施策がデジタルユーロだ。
法制化が進めば、2027年半ばにパイロットと初期取引が始まり、2029年に最初の発行が可能になる見通しだ。
チポローネ氏はこう説明する。「デジタルユーロは現金のデジタル版であり、法定通貨としてユーロ圏全域で使える」。
現金の役割が低下する中でも、欧州市民が「欧州の選択肢」を持てるようにする狙いがある。
また、デジタルユーロはオンライン・オフライン双方で利用可能とされ、プライバシーや耐障害性にも配慮される。銀行の役割も守られる設計だ。
「銀行は引き続き顧客関係を担い、デジタルユーロの配布や管理を行い、その対価を得る」。利息を付けず、保有上限を設けることで、信用仲介や金融政策への影響も抑える。
トークン化市場を支える中央銀行マネー
ホールセール決済と資本市場では、トークン化された中央銀行マネーが鍵を握る。
トークン化は決済の即時化やスマートコントラクトを可能にするが、「共通の安全な決済資産がなければ流動性は分断される」。
ECBはこの分野で二本立ての戦略を進める。
既存インフラとDLTを接続する「Project Pontes(プロジェクト・ポンテス)」、そして統合型または相互運用型の欧州デジタル資産市場を探る「Project Appia(プロジェクト・アッピア)」だ。
狙いは明確だ。欧州のデジタル資本市場を、ユーロと欧州インフラを軸に構築することにある。
国境を越える決済と通貨主権
クロスボーダー決済では、「開放性と自律性の両立」を目指す。
ECBは即時決済システムTIPSを他国と接続し、将来的にはグローバルな即時決済ハブに育てる構想を描く。インドなどとの連携がその第一歩だ。
デジタルユーロも、将来的には他国通貨との接続を可能にする設計が検討されている。
「傍観するか、設計するか」
チポローネ氏は最後に、こう締めくくった。
「選択は単純である。通貨の未来が他所で形作られるのを傍観するか、それとも自ら設計に関わるか」。
中央銀行がデジタル時代に役割を果たし続けるためには、変化から逃げるのではなく、民間と共にその変化を形にしていく必要がある。
ECBが描く「通貨の未来」は、単なる技術革新ではなく、通貨主権と信頼をデジタル時代にどう引き継ぐかという問いへの答えでもある。
|文・編集:山口晶子
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